夜回り先生を目指さない

記事のアップ前からいろんな方に反応をいただいて恐縮です。

まだちゃんと言語化できたわけではないのですが、このままだと書かないままになっちゃいそうなので、とりあえず仮バージョンのままアウトプットしてしまいます。

※ ツッコミとか入れてもらえるともっと考えもまとまると思うのでありがたいです。

まず大前提として、水谷さんがやってることはものすごいことだと思います。とてもじゃないけど真似なんてできない。実際に救われている子どもがたくさんいるのも事実だし、今から書くことは「批判」として書くつもりはないです。
そのうえで。
私の違和感は大きく2つあって、まず1つは水谷さんがカリスマ視されることについて。いや、カリスマ視されること自体はいいのですが、先生としてカリスマ視されるのは、どうかと思っています。彼があれをやっているのは、あくまで仕事外に好きでやっている「趣味」ぐらいに認識されたほうがいいと思う。
先生の仕事には収まらないし、あくまで善意に基づいて「好きでやっていること」です。(だからといって価値が下がるわけではない)学校現場の教師にあれを求められるのは絶対違うと思います。教師にだってプライベートの生活があったり、家族やパートナーがいたりするわけで、もちろん人を相手にする仕事だからそんなにドライに割り切れないところは多々ありますが、あれはあくまで「教師の仕事」ではないと思います。カウンセリングマインドを持つということは大切だと思うけれど。
夜回り先生のしていることは、世の中のほとんどの人にはできないことなので、基本的には真似しちゃいけないと思う。相談に乗ったりする場合も相談者との距離を意識しないと自分がつぶれてしまう。
夜回り先生を目指す必要はないし、目指すのは危ないと思う。
あと、そもそも私は教育にカリスマはいらん、と思っています。子どもとかかわる一人ひとりが思考停止せず、子どもたちのことを考えて、思考錯誤を続けることが大切なのだと。「すごい先生」が一人でがんばってしまったら、その人が倒れてしまった時、その人を支えに生きている子はどうしたらいいのか。私は、チームとして、仕組みとして、子どもをどう支えられるのかを考えたいです。

2つ目は夜回り先生の子どもたちと関わるスタンスです。
本を読んだり、話を聞くと、夜回り先生にとって、子どもたちは「弱き被害者」なんだな、と感じます。それは確かにそういう面は強いと思います。生まれ育った環境のしんどさから非行に走っていく子どもは多いのも事実で、どうにかしたいと私も思う。でも子どもたちは「弱き被害者」であるだけではなくて、一人ひとり力を持った存在です。許し、守られるだけの存在ではないと思います。もっと、大人のパートナーになれる存在じゃないかなあ。その辺、水谷さんはどう考えてるんだろう。
実はこっちの違和感の方が大きいのですが、こっちのほうがうまく言葉にできません。。

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