Happy new year !!

明けましておめでとうございます。
みなさん、昨年中は本当にお世話になりました。
私は本当にたくさんの人に支えられて生きてるなぁと思います。
ほんとに感謝。ありがとうございます。
今年もいろいろ迷惑かけると思いますが、なんとかお付き合いくださいますようお願いします(心底)

明けましていきなりですが、ワタクシ今自分の生き方を見失っています。生き方、働き方、人との関り方etc...とりあえず仕事しようと思ったらできるんだけど、それじゃだめだーと思って。やっとちょっとだけ回復したので、ちゃんと頭を使って考えようと思って久しぶりにこっちのブログを更新しています。

とりあえず「問い」だけ立てちゃいます。
これに自分で答えていこうと思います。
(いっぺんには無理なので徐々に書き足していきます。)


●結局なんでCORE+をやってるの。(理由)
≪ルーツ?≫
私は、自分が部落出身であるということを自分のルーツとして語ってきたけど、本当にそうなんかな。私は人権問題をやりたいと思っているんだろうか。たぶん、そういう地域で育ったから考えないといけないという感覚があるけど、自分に強烈な被差別体験があるわけじゃない。世の中に差別や偏見があるのは感じてるけど、それに傷ついたりは、特にしていない。誤解をおそれずに言えば、私がいろいろ活動しているのは差別をなくすことがゴールではない。

昨日リバティおおさかの松永さんと話していて分かったのは、私は部落問題を通して社会に問いたいことなんては何も持っていない。つまり、私個人にとっては部落問題って実は大した問題じゃない。いや、私が部落で生まれ育ったということは、私を構成する大きな要素だから関心はあるけど、取り組みたいことかというとどうか。部落問題を伝えたいというより、自分の一部として普通に「○○っていう部落で生まれ育ってん。それも含めて私は自分が好きやねん」って言いたいから言ってるだけ。本当にそれだけ。
(それで講演なんかして、講演料なんてもらってしまってていいのか?っていう不安は若干あります。。)

ただ、社会と自分はつながっていて、社会にあるさまざまな課題(人権イシューも含め)を考えることは自分を深く知っていくこと・社会とつながっていくことで、それは時に自分の身を切らなきゃいけないからしんどいこともあるけど、すごく意味と価値のあることだとは強く感じてる。それはすごく伝えたい。自分にとっての関心事はこっち。
でも意味と価値って何にとっての意味と価値だろう。
その人にとって?社会にとって?両方?
人や社会とつながりながら自分の頭で考え続けて、そうやって生きていく人が増えたら、社会ってきっとよくなると思うんよなぁ。その人自身も考えるっていう行為を通して解き放たれていくんだと思う。
差別も本当の意味でなくなっていくんじゃないかな。楽観的すぎるかな。
そういう意味では私は問う側の人間というより、スタンスとしては問われる側(だって私自身は差別で苦しんでないから)に立っていて、その問いを「自分の生き方の問題として考えようよ」って伝えたいのかもしれない。

私は差別や矛盾がいっぱいの社会でも、大丈夫、生きていけるよって、自由にはなれるよって思ってる。自分を大切にしながら、他者や社会とかかわりながら、必要ならば社会に働きかけながら、自分が納得できる人生を生きていけるんじゃないか。そのためのパワーをどう育てうるのか。そっちに興味がある。

≪CORE+をやるまで≫
私は、地元の友達とか下の年代の子どもたちを見ていて、高校中退率が高いこととか大学生が少ないことは感じてた。
教育格差があることによって子どもたちが自分の人生を自分で選びとることができなくなっている。だから格差をなんとか越えなければいけない。私は大学2回生のときに地元の青年部として中高生の学習会をつくった。今では信じられないけど、当時私はだるそうにしている子どもたちを怒鳴りながら勉強させてた。それがその子たちの選択肢を広げていくためには正しいと思ってたんだと思う。
何で変わったんやろう?
大きなきっかけとか出来事があったかというと多分ない。なんか思考の流れとして自然に変わっていったんやけど、それはフレイレの「被抑圧者の教育学」との出会いが大きい。あの本を読んだ時は、自分の、学習会での子どもへのかかわりのことなんて省みることもせず、部落解放運動の矛盾をついてる!みたいな感じで共感した(笑)だから多分ショックを受けずにすんなり腑に落ちたんやろうな。どやねん、自分。
それからEECの演劇教育シンポジウムでオルタナティブスクールっていうのがあるらしいということを知り、行ってみたいなぁと思うようになり、おすぎさんを通してりんりんと知り合ってCOREが始まった。
この頃の私の関心はまだ地域教育にあって、過去のblogに「地域と学校の協働を通じて、ひととまちを元気にすることで、個人が自己の生き方を選び取りながら、つながりあえる、真に『自由』な社会をつくる」ことがしたいと書いてあった。
COREを始めた頃は別に明確なミッションがあったわけじゃない。「私はこれがしたい」っていうwantができたのは多分2回目にきのくにに行ってから。子どもたちと話したり取り組みを見聞きしたりして、「ここでやってることってめっちゃ人権教育やん!人権教育やってる先生、ここから見習おうよ!」と思った。「ここの子たちは自分がアクション起こすことで自分自身や周囲の環境は変えていけるって思ってる。いろんなハンデがあっても、この感覚を育んでいくことが人権教育やん!」と思った。
COREの初期は、私は人権教育を変えたい!と思っていて、オルタナティブ教育はその指針になるから広めたい!と思っていた。ちなみに私が受けてきた人権教育っていうのはたぶん、かなり特殊、というかトンガッテル(?)と思います。最近思うけど、私のルーツって多分部落出身者であることよりも何よりも人権・同和教育をガッツリ受けてきたってところにあるんだと思う。それへの共感と、違和感。すごいなーって思うところと、それじゃアカンやろって思うところ。これは別の記事でまた詳しく書きたいです。

●結局CORE+で何がしたいの。(ミッション)
「私の人生は私がつくっていける。」「私が動けば社会は変わる。」
その感覚を持てる社会をつくりたい。
それができれば社会はきっと勝手によりよくなっていく。

このミッションと今やってる具体的な事業とのつながり。
当たり前を壊す=コウイウモンダーを倒す=今の自分・学校・教育・社会は固定化されたものではない=他の選択肢もあるという気づき。

CORE+は、まずは「教育は私がつくる」という感覚を教育者が持つところにアプローチしている。
何を、いつ、どんなふうに学ぶかは私が選び、決めることができる。そんな社会にしたい。

が、目指したい社会と今の社会のギャップをもっときちんと整理して、なんで今そうなっていないのか、何をどう変えたら目指すものにたどり着けるのか、その中でCORE+が担うべき役割は何かを確信を持ってつかむためにもっとたくさんのことを学ばないといけないし、考えないといけない。そこが今、正直全然足りてない。

●自分が大事にしたいプライドって何だっけ。
私はプライドが高い。プライドってすごく大切だけど、いろんな段階のプライドがあって、本質的じゃない、邪魔なプライドもある。
私は承認欲求がめちゃくちゃ高い。時々、それがむくむくと湧きあがってくる。CORE+の活動を承認欲求を満たす道具にしてしまったり、人に認められたいという欲求・目的が肥大化して、本来何がしたいのか分からなくなったりもする。今、けっこうそんな感じ。
うーん・・・

●風と土のバランスをどうとっていくの。
 −教育分野
 −人権分野

これは近々これだけで1つ記事を書きたいと思ってます。

●人とどんなふうにつながって生きていきたいの。
−家族
今。甘えすぎてる。家族の一員としての役割を果たしてない。最近、家族にまったくやさしくできない。感謝すらできてない。後ろめたさと自己嫌悪で結局自分もしんどい。家族にもっと貢献したい。経済的に。精神的に。家事も。要するに自立したい。経済的には、毎月5万を必ず入れられるように浪費をしないこと。家事も毎日1つはしよう。やろう!って思ってもいつも続かないから、カレンダーにチェックして確認をしよう。

−パートナー
決めた!別れよう。前向きに。(いろいろ書いたけど結論以外消しました。笑)

−その他
去年の末、私が大事にしてきたつもりだった人間関係が壊れた。めっちゃ簡単やった。人間関係って壊れるときは一瞬・・・。
いろいろ考えてたんやけど、私はあのコミュニティの中で自己開示をしてこなかった。いつも気を遣ってた。でも逆に甘えてたところもたくさんあった。今回のことはその結果だと思ってる。
私は、みんなに認められたくてみんなに好かれていたい。八方美人。でも、八方美人じゃだめだということはさすがに分かってきていて、自分の感情を表に出すことを意識的にしようとしてる。そしたら不慣れで下手くそなもんで、やっぱりぶつかる。私は対話したくて、でもそうは受けとられず、もう対話のテーブルにもついてもらえない。今、そんな感じ。
時間が解決してくれるんかな・・・。時々シャッターを下ろしてしまいそうになる。切ってしまったら楽かもしれない、と思う。でも、自分の生き方としてそれは選びたくないし、私のやってきたこと、やりたいことと矛盾する。
こういうことは、これからたくさん遭遇するんやろうな・・・。でも、自分を曲げるのではなく、相手を傷つけたり負かしたりするんじゃない、そういう対話がちゃんとできるようになりたい。でも、もし失敗して壊れてしまったときは、シャッターを下ろすんじゃなく、いつか話せると信じて、自分を開いて待つ。あせらず、あきらめず。それぐらいの覚悟は、しておきたい。