目指す社会のかたち

「自由だー!」とか「幸せー!」って、感じることは人それぞれ違う。だから難しいんやなあ。だれの考えている自由が正しくて、だれに自由は間違ってる、なんて考えても、途方もなくて答えもなく、しんどい。でも、「人それぞれでええやん」とは言えないこどもらの状況が目の前にある。

この頃、自由・多様性・公共・全体などなどの言葉に悩まされている。私のめざす自由とは何なのか。私は、私は私、人は人。私も干渉しないからあなたも干渉しないでね。っていう社会(快適な社会)をつくりたいわけじゃない。私とあなたが、一緒に生きていくには、どうしたらいいんやろね。って一緒に考えられる社会(濃密な社会)をつくりたい。これは現実的にはちょっとずつ我慢したり、自分じゃない誰かとか何かのために努力したり、そんなことが必要になってくるんだろう。
快適な社会はきっと成り立たないんじゃないかと思うし、人が孤立していってさみしい。人と人が一緒に生きていくためには、違うことを前提にコミュニケーションをとっていくことが必要だと思う。居心地がいい=快適ではないと思う。私が居心地がいいと思うのはむしろ濃密のほう。濃密=しんどいじゃない。

濃密さは多様であることを前提としている。
違う、という前提からスタートして、わかり合おうとする。または折り合いをつけようとする。それは大変でしんどいプロセスではあるけど、当たり前やコウイウモンダーを排して、「どうせ...」とか「どうしようもない」という閉塞感から解放されるってことでもあるのかなと思う。そういう意味では楽になれるのかもしれない。
先の見えない不安と無力感のしんどさよりも、これを乗り越えたら何かあるかもしれないというしんどさのほうを選ぶんじゃないだろうか。

で、これを学校を考えてみると。
教師集団が学校運営について意思決定していく時には、どんなこども観・教育観を持っているのか、学校をどうしていくのがいいと思うのか、というふうに、自分の幸せや居心地の良さだけでなく、考えたり折り合ったりする基準が「こどもにとってどうか」になる。これがさらに難しい。何が正しいかっていう話になってくる。答えなんてない中で。現状では「こどもにとってどうか」という視点を前提として話し合いがされている時点で、かなりいけてる学校だと思うけど。。でもその先に、こどもたちにとって、有益な授業や取り組みや学校文化ってどんなもので、それをつくるにはどうしたらいいのかっていう対話があり、そのうえでメンバーが納得感をもって協働できたらいい。うーん、どうしたらいいのか。